飲めないことは恥ずかしい?
2016.12.23 断酒191日
友人宅にお呼ばれ。穏やかで、柔らかくて、大切な友人。
いつ会っても魅力的。変わらない自然な風が吹いていて、心地よかった。
12月にしては暖かい日で河原でごろんと横になってもちっとも寒くなかった。
見上げた空が澄んでいて気持ちが良かった。
シラフでよかった。心底思う。
子供たちの可愛らしい笑顔も、
弾くような笑い声も、
眩しい太陽も、
流れる雲も、
季節外れの柔らかい風も、
すべてこの身で受け止められた。
お酒のなかったクリスマスパーティ。
また会いに行こう。ありがとう。
2018.11.21 断酒889日
友人と食事をするときや会社での飲み会でお酒を断る理由に毎回困っていました。
学生時代から大酒飲み、酒豪として知られていた自分が飲まないなんて恥ずかしいことだと思っていました。
2年前のクリスマスパーティーで飲まずに済んだのは、昼間で子供たちも小さいし
アルコールを飲むような会ではなかったからでした。
飲まないことで、子供たちの弾けるような笑い声も笑顔も未だに記憶に残っています。
子供が幼いうちにお酒をやめられて本当に良かったと思っています。
30代前半でアルコホリック発覚だなんてなんとも悲しいことですが、
残りの人生を思えば、むしろ飲まない人生に切り替えられたのは好機でした。
断れない自分がいたのは、お酒が飲めないことは恥ずかしいことだという思い込みからでした。
明らかに歪んだ認知からくる誤認です。
もともと飲めない人だって世の中には大勢いますし、お酒を断ることが失礼にあたることもまた本来はないわけです。
勧められて断るのは確かに気が引けますが、勧められたから飲んでいては命がいくつあっても足りません。
勧めてきた人に命の保証をしてもらえるわけもないのですから。
「すみません、実は健康のためお酒をやめたんです。お気持ちだけいただきます。」
と笑顔で答えて
「ところで、~」と明るく話題を変えるくらいでいいのだと今なら思います。
飲めないことは恥ずかしいこととは今では思いません。
もう一生分のみましたからね。
歪んだ認知を見つけては書き換えていく作業は楽ではないですが、
定着したとき、生きづらさから解放されているのを感じます。
それは、ありのままの自分に近づいてる確かな手ごたえなのだと思います。
好きで飲んでいたようで、飲めることで自分を誇示していたように思います。
それは偽りの自分を演じていたのだと思うのです。
強いお酒を何杯も飲めてすごい、こんなくだらない評価にさえ喜んでしまう自分がいたのです。
承認賞賛を求めていた自分がそこにいたのでしょう。
偽りの自分を一つでも多く減らして、本当の自分として生きていく道が健全で生きやすい生き方と言えます。
飲まない自分がいる。
それを伝えられるようになれた自分の方が、ずっとずっとカッコイイ生き方です。
飲まずに過ごす一日一日が地を固め、生きていくうえで安心して進める道となるのだと思います。
今日の山びこ 断酒寸言集「山びこ」より
「酒害にかかったことは何も恥かしいことではない、それから 立直ろうとしないことが恥かしいことなのだ」
アルコール依存症を治すために、入院したり、断酒会に入ったりすることを恥ずかしがる人が多いものだ
家族は勿論、世間一般の人々も、アルコール依存症患者を軽蔑する風潮は残念ながら無くなっていない
確かに、アルコール依存症になると、心が歪み人格が変容し、道徳心が低下して社会生活に乱れが生じ、
周囲の人に迷惑をかけることは事実である。
それは、病気によって生ずる症状なのに、世間一般の人はそう理解してくれずに、その人の性格、人格の故だとするところに問題がある。
この病気は、特殊な性格の持ち主だけがなるというのではなく、酒を飲み続けていれば誰でもかかる病気なのだから、
別にかかったことを恥ずかしがる必要は全くない。
恥ずかしいといって断酒会入会を拒んで飲んでいるほうが、本当は恥ずかしいことなのに、
気が付かないところにこの病気の恐ろしさがある。